Article_001_成田からパリ
台北経由でパリへ
2004年1月下旬の某日、私はパリにいた。
日本から西アフリカのマリ共和国の首都・バマコに行くには直行便がなく、どこかしらで乗り換える必要がある。その一番簡単なルートが成田ーパリーバマコだった。その中でも一番早いのがエールフランス便だが、料金が高い。私が選んだのは、エバー航空の成田ー台北ーパリ便、パリからはPoint Afriqueというローカルな航空会社のパリーバマコ便という手段だった。
エバー航空の便にしたのには、比較的安い以外にもう一つ理由があった。チケットが「一年オープン」だったからだ。マリへ行くならできるだけ長く滞在したかった。出不精だから、出かけるとなると今度は帰るのが億劫になるに決まっている。それにせっかく遠くへ出かけるのだし、できればそこで普通に暮らしてみたかった。そうして見つけたのがこの便だった。Point Afrique便は、パリーバマコで最安値だったのでこれに決めた。ちなみに現在は、このルートは存在しない。
パリで迷子
この二つの便の間には二日間あった。その二日間はホテルではなく、友人の友人で会ったこともないフランス人、メラニーの家に泊めてもらえることになった。12区のParis Gare de Lyon(パリ・リヨン駅)からほど近いところにある、古く瀟洒な石造りのアパルトマンの確か四階の部屋だった。エレベーターはない。バマコに一年滞在する予定の私の荷物は、大きくて岩のように重いスーツケースで(重すぎて成田空港で引っかかり、荷物の一部を諦めたのだが、それでも岩のように重かった)、これを持って階段を登ってくれたメラニーの恋人には大変申し訳ないことをしたと思う。日本を出発するとき成田に向かう電車に乗った新宿駅で、見知らぬ外国人男性が声をかけてくれて、これを持ってホームへの階段を降りてくれたことを思い出した。日本の男性は、こういうときに誰も声をかけてくれない。
二日間でもパリのあちこちを見て回ることはできたかもしれないが、当時の私はパリにほとんど関心がなかった。しかし同時期にマリへ行く友人のAくんがすでにパリにおり、彼が誘ってくれたので、18区のChâteau Rouge(シャトー・ルージュ)にあるライブハウスに連れて行ってもらった。彼の泊まるゲストハウスは、地図を見たところメラニーのアパルトマンからほど近く、歩いて15分くらいのところにあった。その前で待ち合わせたのだが、どういうわけかたどり着けない。地図を見て、方角はあっているはずなのだが、目指す通りの名前が現れないのだ。そもそも私は無類の方向音痴なのだが、パリは通りの名前や番地が記されたプレートが建物に掲げられていて、かなりわかりやすい街のはずだった。同じところをぐるぐると巡っているようで埒があかないので、道を歩く人に通りの名を告げ、どう行けばいいかを尋ねた。その人に教わった方向へ行ったが、一向に目指すゲストハウスは現れない。
いよいよバマコへ
どのようにしてたどり着けたのかわからないが、Aくんと会えた時には、小一時間経っていた。この界隈に斜めに走る道と、道を教えてくれる親切心はあるものの言うことは適当なフランス人という二重のトラップによって、たった15分の道のりが一時間を超すダンジョンとなってしまったのだった。1月のパリの寒空の下、律儀に外で待ってくれていたAくんは、この事件のせいで風邪をひいてしまった。携帯電話がない時代ではなかったが、その時のパリの私たちは持っていなかった。その夜のライブがどんなだったかはもう思い出せない。Aくんには感謝しかなかった。
実は銀座で同じようなことをしてしまったことがある。しかもそれはとある画廊の採用面接に向かうときだった。駅から10分ほどの建物を目指していたが、全然たどり着けない。まず、出口を間違えていたのと、その辺りは碁盤の目のように整然としているようでありながら斜めに走る道があり、どうにも惑わされてしまったのだ。その時も私は携帯電話を持っていなかった。もちろん、採用には落ちた。
迷子になった翌日は、いよいよバマコへ向けて出発する日だった。Point Afriqueのバマコ行きの便はシャルル・ド・ゴール空港のTerminal 3から出発する。チェックインは四時間前に設定されていた。これは通常より早い。そのように設定されている意味は、実際にその時刻にTerminal 3へ行ってみてよくわかった。
Article_002へつづく